非文
非文とは、文法的な誤りがある文ってよく説明されてます。感覚的にあーこれは非文だな、これは非文じゃないなって分かるけど、文法的な誤りっていったい何を指すのか、自分の中でそれ以上言語化できませんでした。でも今日何かヒントをもらった感じがする。
(1) *書んでください
(2) *猿も木が落ちる
(3) *猿も木から落下する
(4) #先生、お前の趣味は何?
(5) #これを確認してください。ありがとうございます。
非文とは、おそらく音韻的、形態的、統語的に誤りの文のこと。
(1)は音便の誤りとも見れるし、「書く」の活用の誤りとも見れる。つまり音韻的、あるいは形態的に誤りがある非文。(2)は「から」ではなく「が」を使っていて統語的に誤り。こういうのも非文。ちなみに(3)は「落ちる」の代わりに同じ意味の「落下する」が使われているけど普通こうは言わないから間違い。これは音韻的、形態的には正しいけど、共起関係の面から間違っていて統語的に誤りだからやっぱり非文(だと思う)。文法的な誤りは、音韻的、形態的、統語的な誤りのことなんだと思う。
一方で(4)(5)は音韻的にも形態的にも統語的にも誤りは一切ないから非文じゃないのは明らか。(4)は目上の先生に対して「お前」とかタメ口を使っているのは語用論的に不適切なだけ。(5)も中国語からのよくある転移でやっぱり語用論的に不適切。でもでも文法的に誤りじゃない。
前は、非文とは常にいかなる時でも誤りになる文のことって覚えていたけど、これもあながち間違ってないと思う。(1)~(3)はどんなときでも間違いだし。(4)(5)は文脈さえ整えば間違いじゃないときもある。例えば「先生」が名前だったとか、学生が先生よりも格上という特殊な状況だったとか。間違いってのは奥が深いなあ。
変化の動詞は直接受身にできない
(6) 雨が雪になる。 (変化の動詞)
(7) 狐が人に化ける。(変化の動詞)
なる、化ける、変わるなどの変化を表す動詞は、変化する主体をガ格で、変化の結果の状態をニ格でとります。これらは「雪が雨になられる」「人が狐に化けられる」みたいに変化の結果の状態を主格にして直接受身にはできないって話なんですけど… でも何でできないんだろうって考えた。変化する主体も変化の結果の状態も同一主体を指しているから、同一主体が同一主体から動作を受けることを表す直接受身にはできないってことなんだろう。つまり、「雨」も「雪」も名前は違うけど同じもの、「狐」も「人」も元々は同じもの。同じものを指しているから受身にはできない。なんか当たり前のことを言ってるようだけど、結構納得がいく説明のように思える。
(8) 足利義満が金閣寺を建てた。 (生産系の動詞)
(9) 金閣寺は足利義満によって建てられた。 (直接受身)
変化の動詞は生産系の動詞と同じく何かを生み出す点で共通していそうだけど、生産系の動詞は主体と生産物が同一主体じゃないから(9)のように受身にできる点で違います。

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