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謙譲語Ⅱとは?

目次

謙譲語Ⅱ(丁重語)

 謙譲語Ⅱ(丁重語)は自分側の行為・ものごとなどを、話や文章の相手に対して丁重に述べるものです。

行為
(自分側の)
参る、申す、いたす、おる、存じる
ものごと
(自分側の)
拙著、小社

 (1) 明日から海外へ参ります。
 (2) 明日から海外へ行きます。

 (1)と(2)は同じ内容ですが、「行く」の代わりに「参る」を使うことで、自分の行為を話や文章の相手に対して改まった述べ方で述べることになり、これが丁重さに繋がります。「拙著」「小社」など、名詞についても自分を控え目に表す語があります。

 (3) 私は今から社長のところに参ります。
 (4) 私は今から家族のところに参ります。
 (5) 電車が参ります。

 謙譲語Ⅰは自分をへりくだらせて、相対的に行為の向かう先の人物を高めるものでした。しかし謙譲語Ⅱは自分をへりくだらせるだけで、行為の向かう先の人物を高めるわけではありません。(4)の「参る」という行為の向かう先「家族」は高める必要がなく、実際高めていません。これと同じ構文の(3)「社長」も同様に高めているわけではありません。

 また、謙譲語Ⅱは行為の主体をへりくだらせる機能よりも、表現の丁重さ(格式の高さ)を表すことに機能の中心を置くときもあります。例えば(5)は行為の主体「電車」をへりくだらせているわけではなく、「来る」に対する丁重な表現としての「参る」が用いられています。

 謙譲語Ⅱは行為やものごとの<向かう先>の人物を言葉の上で高く位置付けて述べるのではなく、話や文章の相手に対して丁重に述べるだけの敬語です。

自分の行為以外にも謙譲語Ⅱが使える

 謙譲語Ⅱのうち、行為を表すものは(6)(7)のように使うのが典型的な使い方です。謙譲語Ⅱは基本的には「自分側」(「自分」と「自分の側の人物」)の行為に使います。

 (6) は明日から海外に参ります。     (「自分」に使う)
 (7) 息子は明日から海外に参ります。    (「自分の側の人物」に使う)
 (8) 向こうから子供たちが大勢参りました。 (「第三者」に使う)
 (9) バスが参りました。          (「第三者」に使う)
 (10) も更けて参りました。        (「ものごと」について使う)

 ただし、謙譲語Ⅱには「第三者」や「ものごと」に使う場合もあります。
 (8)の「参る」は「自分」の行為ではなく第三者「子供たち」の行為ですが、ただ「子供たちが来た」という事態を話や文章の相手に対して丁重に述べているだけです。このように立てなくても失礼に当たらない第三者やものごとにも謙譲語Ⅱを使うことができます。しかしながら、第三者やものごととはいっても基本的には<自分側>の行為やものごとにあたります。

 (11) *田中さんがわざわざこちらに参りました。
 (12) *社長が申していますから静かにしてください。

 自分側の行為やものごとに使ってへりくだるのが謙譲語Ⅱだから、<相手側>の行為や<立てるべき人物>の行為に使うのは不適切になります。(11)(12)は相手側かつ立てるべき人物である「田中さん」「社長」に謙譲語Ⅱを使っていて不適当。<相手側>の行為には尊敬語、<立てるべき人物>には尊敬語謙譲語Ⅰを使ったほうが適当です。

謙譲語Ⅱの形式

 謙譲語Ⅱの形は少なめ。「行く/来る」に対する「参る」、「言う」に対する「申す」のように特定の語形(特定形)による場合と、「~いたす」(「利用する」に対する「利用いたす」)があるだけです。

一般形 【~いたす】
確認する→確認いたす、説明する→説明いたす
特定形 参る(「行く」「来る」の謙譲語Ⅱ)
申す(「言う」の謙譲語Ⅱ)
いたす(「する」の謙譲語Ⅱ)
おる(「いる」の謙譲語Ⅱ)
存じる(「知る」「思う」の謙譲語Ⅱ)

 ※動詞に可能の意味を加えてを謙譲語Ⅱにする場合は、まずを謙譲語Ⅱの形にしたうえで可能の形にします。(参る→参れる、いたす→いたせる)

名詞の謙譲語Ⅱ

 「拙」「愚」「小」「弊」「粗」などがついた漢語名詞は自分側の人物やものごとをへりくだる表現になり、謙譲語Ⅱに分類されます。

 (13) 拙著、拙宅…
 (14) 愚見、愚作、愚息…
 (15) 小生、小社…
 (16) 弊社、弊店…
 (17) 粗品、粗茶…

謙譲語Ⅰと謙譲語Ⅱの両方の性質を併せ持つ敬語

 謙譲語Ⅰと謙譲語Ⅱは違う種類の敬語ですが、「お/ご~いたす」はその両方の性質を併せ持った敬語です。

 (18) 駅で先生を待ちます。
 (19) 駅で先生をお待ちします。
 (20) 駅で先生をお待ちいたします。

 上記3つの例文は同じ意味ですが、「待つ」の代わりに「お待ちする」を使っているのが(19)、「お待ちする」の「する」をさらに「いたす」に代えたものが(20)。(20)は謙譲語Ⅰ「お待ちする」と謙譲語Ⅱ「いたす」が両方使われています。この場合、謙譲語Ⅰ「お待ちする」の働きによって「待つ」の<向かう先>である「先生」を立てながら、謙譲語Ⅱ「いたす」の働きによって話や文章の<相手>(「先生」である場合も、他の人物である場合もある)に対して丁重に述べることになります。つまり、「お/ご~いたす」は、「自分側から相手側又は第三者に向かう行為について、その向かう先の人物を立てるとともに、話や文章の相手に対して丁重に述べる」という働きを持つ 「謙譲語Ⅰ」兼「謙譲語Ⅱ」です。

謙譲語Ⅰと謙譲語Ⅱの違い

謙譲語Ⅰ 謙譲語Ⅱ
用法① へりくだって相手を立てる へりくだるだけで相手を立てない
用法② へりくだらず、丁重に述べるだけ

 謙譲語Ⅰも謙譲語Ⅱも基本的には「謙譲」なのでへりくだるんですが、謙譲語Ⅰは相手を立てて、謙譲語Ⅱは相手を立てません。

用法①の違いについて

 【謙譲語Ⅰ「伺う」の例】
 (21) 〇 先生のところに伺います。 (「先生」を立てている)
 (22) ✕ のところに伺います。  (「弟」を立てているが「弟」は立てる必要がない)

 謙譲語Ⅰの場合、(21)は自然で(22)は不自然です。なぜなら(21)は「伺う」という行為の<向かう先>である「先生」は立てるのにふさわしい人物ですが、「弟」は立てるのにふさわしい人物とはならないからです。このことから謙譲語Ⅰは立てるのにふさわしい<向かう先>がある場合に限り使える、ということが分かります。(謙譲語Ⅰ=へりくだって相手を立てる)

 【謙譲語Ⅱ「参る」の例】
 (23) 〇 先生のところに参ります。
 (24) 〇 のところに参ります。

 一方、謙譲語Ⅱの場合は(23)も(24)も自然。立てるべき相手「先生」のときも立てるべきではない相手「弟」のときどちらも「参る」が使えるということは、「参る」は立てるべき相手がいるかどうかは関係なく使え、相手を立てている表現ではないということです。謙譲語Ⅱは相手を立てるわけではないから、立てるのにふさわしい<向かう先>があってもなくても使うことができます
 (謙譲語Ⅱ=へりくだるだけで相手を立てない)

用法②の違いについて

 (25) ✕ もお更けした。     (謙譲語Ⅰ
 (26) 〇 も更けて参りました。  (謙譲語Ⅱ)

 「更ける」に謙譲語Ⅰを作る一般形「お~する」をつけたものが(25)、「更けてきた」の「きた」を謙譲語Ⅱの特定形「参る」に変えたのが(26)です。
 (26)の「更けてくる」という行為の主体は「夜」ですが、「夜」は自分ではありません。謙譲語Ⅱはこのように一見して自分の行為ではないものにも使えるんです。この場合「夜」がへりくだっているわけではなくて、ただ「更けてきた」ということを丁重に述べているだけ。でも謙譲語Ⅰにはそんな用法はありません。謙譲語Ⅰはへりくだらないといけないし、立てる相手がいないといけません

参考文献

 文化庁(2007)『敬語の指針』(https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/hokoku/pdf/keigo_tosin.pdf




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