語用論的転移(pragmatic transfer)
語用論的転移(pragmatic transfer)とは、第二言語で発話行為をするときに、母語の語用論的知識を転移することです。ここでいう語用論的知識は状況に応じた適切な表現に関する知識のことで、社会言語能力や社会言語学的能力とも呼ばれます。語用論的転移にも正の転移、負の転移があり、特に負の転移は語用論的誤り(pragmatic failure)と呼び、言語教育では特に語用論的誤りが問題となります。
(1) 私と一緒に買い物に行きたいですか?
(Would you like to go shopping with me?)
(2) 「金曜にみんなで飲みに行くけど参加する?」「結構です」
(3) (有給取得の場面で)部長、3月1日は休みます。
語用論的誤りでよく挙げられる英語の例は「Would you like to ~? (~したいですか?)」です。日本語では相手を誘うときに文型「~ませんか?」などを使いますが、英語でのこの表現を用いることで(1)のような言い方になってしまい、日本語母語話者にとっては不自然に感じられます。文法的な誤りは表面的で気づきやすく、母語話者や言語教師が訂正してくれる可能性が高いです。しかし語用論的誤りは聞き手が違和感を感じるだけで訂正してくれないことが多く、そのため学習者はそれが間違いであることに気づかず、いつまで経っても誤りであることに気づかないケースもあります。(1)のようにせっかく誘ってくれている場面でわざわざその場で誤りを指摘する人は少ないはずです。
(2)のような場面で「結構です」とストレートに断るのは日本語ではあまり適切ではなく、通常は「すみません」「行きたいんですが…」「~があって行けないんです」のように謝罪や理由を述べてやんわり断ります。(3)においても、日本語で有給を取得するときは「すみませんが」や「休んでもいいですか?」などの言い方が好まれます。言語によって語用論的知識は異なり、その適切さのルールは必ずしも第二言語で通用するとは限りません。
日本語と中国語の依頼表現に関する語用論的転移
沖ほか(2022: 66)は日本語での依頼について、「相手に迷惑をかけていることを詫びる気持を表す表現と、定型的挨拶表現を添える」と述べています。日本語母語話者は相手に何かお願いするときに「すみませんが」「申し訳ありませんが」などの謝罪表現を多用し、最後に「よろしくお願いいたします」などの定型的挨拶を述べて依頼を締めくくる傾向があり、日本語母語話者はこうした日本語の語用論的知識を第二言語で発話行為するときにも転移させる場合があります。日本語母語話者が中国語で依頼表現を述べるときに「不好意思(すみません)」「对不起(申し訳ありません)」などが多くなるのはそのためです。
しかし、中国語での依頼では「拜托了(よろしくお願いいたします)」や「谢谢(ありがとうございます)」などの表現を用いて「相手の面子を立てる表現を添える」(沖ほか 2002: 66)傾向があり、「不好意思」「对不起」は日本語の依頼表現ほど談話に現れません。要するに、日本語母語話者が日本語の語用論的知識を転移させて中国語で依頼するとき、相手の面子を立てる表現が少なくなってしまうので、結果として中国語母語話者にとっては不自然に感じられます。これは逆も同様で、中国語母語話者が中国語の語用論的知識を転移させて日本語で依頼をするときは「谢谢」が用いられます。しかし日本語では「この部分を修正していただけませんか。ありがとうございます」のように依頼する側が感謝を述べるのは不自然に感じられます。
参考文献
大関浩美(2010)『日本語を教えるための第二言語習得論入門』31-32頁.くろしお出版
沖裕子,姜錫祐,趙華敏(2022)『日韓中対照 依頼談話の発想と表現』和泉書院
小柳かおる(2004)『日本語教師のための新しい言語習得概論』93-94頁.スリーエーネットワーク
加藤重広(2020)『はじめての語用論 ―基礎から応用まで』230-232頁.研究社
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